ザハ・ハディドと建築
ザハ・ハディドと建築2023 01 29

アンビルトの女王

イラク出身の女性建築家Zaha Hadid (ザハ ハディド)の名前が日本で一般的に知られるようになったのは、新国立競技場の建設案があったことが大きいと思う。当時、東京五輪2020に向け、新国立競技場の建て替えが決まりコンペが行なわれ、ザハの案が1等に選出された。しかし、国の予算や様々な問題から建設は急遽白紙となり、当初建つと言われていた新国立競技場は幻となった。個人的には、ザハが建設する新国立競技場を見たかったため、非常に残念なニュースだった。

そもそも私が初めてザハの存在を知ったのは、イギリスの出版社のThames&Hudson社から出ている「Unbuilt Masterworks of the 21st Century: Inspirational Architecture for the Digital Age」という本を学生時代に手にしたことだ。その本は、世界中の建築家たちがデザインしつつも建てられなかった建築物を紹介するものだった。ザハの独創的な建築は、注目を浴びることはあっても実現することがなく、 “建てられない” 建築家を表す “Unbuilt=アンビルトの女王” と呼ばれているのもその時知った。

自分はそれまで建てられるものを設計するのが建築家だという固定概念を持っていたので、そんな建築家が居て良いのかとよりザハと彼女がデザインする建築に興味が湧き、ザハが初めて実現した作品が今はなき札幌のレストラン、北倶楽部ムーンスーンの内装デザインであったことも知り、日本人として勝手な親近感が湧いたのを今でも覚えている。一階ダイニングが氷、二階ダイニングが炎という対照的なコンセプトで、一つの空間として創り上げられている北倶楽部ムーンスーンは、初めて見た時、こんなにクリエイティブな空間が存在したのかと衝撃的だったのだ。



ザハという人物

ザハは現代建築における脱構築主義を代表する建築家の一人で、2004年に建築界のノーベル賞と呼ばれるプリツカー賞を受賞した初めての女性建築家でもある。Le Corbusier (ル コルビジェ)やFrank Lloyd (フランク・ロイド)などの有名建築家たちが首都バグダッドのプロジェクトに参加したり、イラクの近代化と社会改革が急速に進んだ時代に、イラクの政治家でリベラル系政党の指導者の元にザハは生まれる。後にベイルート アメリカン大学で数学の学位を取得し、1972年にロンドンに家族で移り住み、イギリスの建築の名門校Architectual Association School of Architecture (AAスクール)に入学する。

1980年にはロンドンに自身の建築事務所Zaha Hadid Architects (ザハ ハディド アーキテクツ、通称ZHA)を設立しているが、1983年(当時32歳)に香港のビクトリア ピーク山上に建設が予定されていた高級クラブのピーク レジャー クラブの建築設計コンペで優勝したことで、彼女の名は世に知られることになるのだった。結果的にクラブは建設までは至らなかったが、ザハがコンペ用に描いた「ザ・ピーク」の案は、ビクトリア ピークから突き出た大胆なデザイン且つ重力を無視した構造体であったが、脱構築主義の可能性を力強く示している建築であると注目を浴びた。実物が建ってないこともあり、紹介出来る画像がないのが残念である。

惜しくも2016年に心臓発作で死去したが、史上最も成功した女性建築家であり、奇抜なデザインはザハにしか生み出すことができないと思わせられるほどに唯一無二のものだ。そんな彼女のデザインは構造の限界を新たな高みへと押し上げたとも言えるが、一体どのようなことからインスピレーションを得ていたのだろう。



建築のインスピレーション源

元々建築への興味は、10代の頃に家族で行った、世界最古の文明のひとつであるイラク南部の古代シュメール地方への旅がルーツであると、イギリスのGuardian紙のとあるインタビューでザハは答えていた。そこで見た自然と現地の人が調和する景色は、色濃く彼女の脳裏に残り、それと同じようなことを現代で、建築や都市計画の形式として発見、実現しようと語っている。

2019年に完成した北京大興国際空港 上からみるとヒトデのような形をした空港ターミナルは、構造と彫刻性を兼ね備え、都市に融合している。
Photo by 王之桐 on Wikipedia Commons

1970年代にロンドンのAAスクールにザハが在籍していた際も、コンセプトを発展させるためのツールとしてドローイングにもっと注目するべきと主張し、よりラディカルな建築表現へのアプローチを推進していた。それまでの伝統的な建築図面のシステムに限界を感じ、新しい表現手段を模索していたのだ。そして、その際にザハが着目した一人が、ロシアの前衛芸術家Kazimir Malevich (カジミール・マレーヴィチ)である。イタリアの未来派、キュビスムの影響のもとで、絶対主義とも呼ばれる「シュプレマティズム」を創始した人物だ。自然界において完璧には存在しない正方形、幾何学的形態によって純粋な感情を表現しようとしたマレーヴィチは、ペトログラード(現サンクトペテルブルク)の「0.10」展で抽象画を発表し、まったく新しい実験と表現の形を作り出した芸術家とされる。

Kazimir Malevich (カジミール・マレーヴィチ) - Yellow Plane in Dissolution (1917)
Photo by Txllxt TxllxT on Wikipedia Commons
Kazimir Malevich (カジミール・マレーヴィチ) - Suprematist Composition (1915)
Photo by Txllxt TxllxT on Wikipedia Commons

ザハはマレーヴィチの作品を研究することで、絵画が無重力感覚をとらえる手段であることに気づき、それを用いて建築にもダイナミズムと複雑さを生み出せると考えたのだ。そんなザハのAAスクールでの卒業制作は、マレーヴィチの彫刻のフォルムを取り入れた、ロンドンのテムズ川に架かる14階建てのホテルの設計だった。テムズ川にかかるハンガーフォード橋に、水平方向のレイヤーを重ねることでホテルを設置したプロジェクトは、まさに建築にもダイナミズムと複雑さを生み出せることをザハが実証した作品でもある。

冒頭でも述べた、ピーク レジャー クラブの建築設計コンペ時の作品「ザ・ピーク」においても、実にそのデザインはAAスクールでの卒業制作から発展したものであり、ザハは絵画を使って提案を展開している。この頃のザハのドローイングは、同一面上に多数の軌跡を持つ連続線で描かれ、視点を変えることにより歪みを発展させていているのだが、それはマレーヴィチの幾何学的な形からコンセプチュアルな発展を始めていたそうだ。平面を超えても連続性を失うことなく、ダイナミズムや複雑さを増すために、空間そのものをどのように歪ませるか、というザハのアイディアに繋がったという。その後もザハの建造物は歪みを始め、爆発、断片化などのコンセプトを通して、軽快さ、浮遊感、流動性といった多岐にわたる造形美を生み出しているが、コンセプトのどれもが建築を建築として成り立たせる要素の真逆のものばかりである点が非常に面白い。



先見の明

21世紀に入ると、コンピューターでの構造解析や3Dモデリングが可能になり、ようやくザハの建築物が実現できるほどテクノロジーは追いついていく。次第に凄まじいペースで数多くのザハの建築物が世界中に建てられていくが、どれも彼女が手がけたと瞬時にわかる点が、シンプルに凄いことだと思う。ザハは建築以外の分野で、ジュエリーやインテリアなどのデザインにも携わっているが、どんな媒体においても彼女の造形への独特な美学を感じられる。

結果的に建てられない建物も多かったが、ザハは建築界における常識やあたりまえ、固定概念などに反逆し、常に革新的なことへ挑戦してきた建築家である。建築業界で女性というマイノリティとしても、公には語られない多くの葛藤もあったと想像するが、彼女の先を見据える能力は、建築界に新しい風を吹かせた稀有な存在として、高く評価されている。だからこそ、亡くなった今もなお、たくさんの人々をインスパイアし続けている人物なのだろう。

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